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3年前の福井豪雪をしのぐ大雪
2021年、1月10日。
この日は、3年前に福井を襲った豪雪をしのぐほどの大雪の日でした。
私の住むところは県内でも雪深い方で、断続的に雪が降り続け、
朝から雪かきし続けなければ 車も家の玄関も埋れてしまい、
屋根雪も降ろさなければ 家が潰れてしまいそうなほどでした。
家の前の道路は車どころか除雪車も通れず、
人が歩くのもやっとで 市全体が孤立状態でした。
私のお腹の子の出産予定日は1月25日で、まだまだ出てくる気配もしなかったので
「こんな大雪の日に出産になったら、救急車すら来られないから大変だよね~!」
なんて冗談で言っておりました。
そしてお腹の子に、「雪の少ない日に生まれてきてね」と言い聞かせていました。
救急車「向かえません」
そんな日の夜、21時。
娘を寝かしつける時にお腹が痛くて、自分も一緒に寝ようとしましたが
じわじわとお腹が痛くてなかなか寝られず、気がつくと23時。
もしかして・・・という思いもあったのですが、
『こんな日に陣痛がくるはずがない!だってお腹の子と約束したもん!』
という根拠のない自信(笑)から、陣痛だとは思いたくなく、
そう思わないようにしてとにかく寝ようと努力しましたが
いや、明らかに痛みがひどくなってきている・・・
と、もう諦めて
出産予定の助産所の先生の携帯電話に電話をしたのが
翌11日の0:30頃。
「高野さん、それは陣痛だと思うよ」との一言に、
やっぱりそうだよね、腹をくくらなきゃ・・・
と目が覚めました。
出産予定の助産所へは、雪のない状態でも高速道路を使って35分くらいかかります。
高速道路は雪で車が立ち往生して大渋滞だとニュースで聞いていたし、
高速道路どころか、家の前の道路にすら出られる状況ではなかったので
助産所の先生に相談し、とにかく主人を起こして救急車を呼ぶことに。
救急車すら来られない状況だとわかってはいたのですが、とにかく電話をして救急隊の指示を仰ぐことにしました。
そして、主人を起こしたのが午前1時過ぎ。
その後に義両親を起こし、救急車に電話しました。
救急隊の方は「とにかく向かいます」と言って下さったので、とりあえず安心して陣痛に耐えていました。が、すぐに救急隊の方から携帯に電話がかかってきて
「今向かっていますが、途中で前方の車がスタックして、巻き込まれて救急車が進めません。
ご自宅の車で病院に向かえませんか?」とのこと。
いやいや・・・車庫も完全に埋もれているし
そもそも道は人すら通れないし 120%無理です・・・
てゆーか・・・お腹痛い!(泣)
その後、主人が電話のやりとりを代わってくれて
救急隊の方から何度も連絡があり
その度に同じやりとりが繰り返されました。
「向かえません」
「いやどうにか来てください」
産むことしかできない
なんでこんなことになってしまったんだろう。
神様に見放されたのかな・・・
と、私は痛みに耐えながら 意外と冷静に考えていました。
そして、ただ痛みに耐えて じっとしている私の周りで
必死になってくれている
主人、義父、義母、義祖母の姿を見ながら
気づいたことがありました。
その時まで私は、
「赤ちゃんを産むのは私だから、1番頑張らないといけないのは私、
だから、『主人公も私』だと ずっと思い込んでいました。
でも、私はむしろ「産むことしかできない」んだと。
周りの人が必死になってくれて、やっと産ませてもらえるんだと。
私1人では何もできないんだと。
だからこそ、もっと周りを信じて、甘えて、頼っていいんだと。
そしてその分、たくさん感謝すればいいんだと。
最初から、1人で頑張る必要はなかったのだと。
そう気づいたら、すごく力が抜けました。
「『よろしくお願いします』って一言言えないの?」
実は、今回の妊娠が分かった時、主人と一緒に義両親に報告した際、
「おめでとう」と言ってもらえなくて、その代わりに
「『よろしくお願いします』って、一言言えないの?」
と言われました。
正直、その言葉に私は
『まず「おめでとう」って言ってくれてもいいのに・・・
よろしくお願いしますって言ったって、産むのは私だよ?』
と思ったのです。
それから、家からすごく遠い助産所で産むと決めた時も、
『家族から反対されたとしても、産むのは私なんだし、私の好きなところで産めばいいよね』と、軽く考えて決めました。
でも、違ったんだと気づきました。
全部私の思い上がりでした。
本当にたくさんの人が頑張ってくれて、やっと私はこの子を産ませてもらえる。
私は産むだけでいいし、むしろそれしかできないのです。
そう気づいたら、今目の前で必死になっている家族に
感謝の気持ちが湧いて、泣けてきました。
義両親からの
「『よろしくお願いします』って、一言言えないの?」
そいう言葉は、私を責めていたのではなく、
家族みんなでこの子を大事に育てようとしてくれていた
責任感の表れだったのだと思います。
自分だけが頑張るなんて、本当に思い上がりでした。
大雪の中を徒歩、ソリ、除雪車、救急車で病院へ
しばらくして、救急隊の方から
「今、除雪車の後ろについて一緒に向かっています」
と電話がありました。
そして、家からソリで連れ出され
(ソリの上から袋状のもので蓋をされて、真っ暗だし狭すぎて手足すら身動き取れないし
もう恐怖しかなかったです笑)
今度は除雪車に乗せられ(たと思ったらすぐに降ろされ)
雪が降りしきる中、膝上まである雪道を
救急隊の方たちに支えられ、痛みに耐えながら数十メートル歩き、
ようやく救急車にたどり着きました。
そこから、最寄りの病院に連れて行ってもらうことになりましたが
雪で道がガタガタで救急車は揺れまくりで、後から主人に
「体が何回も空中に浮いてたよ笑」と言われました。
空中での陣痛は本当に痛かったです。笑
救急車の中で、すでに陣痛感覚は1分を切っていました。
そして何とか最寄りの大学病院に到着。
それまでの間、救急隊の方たち、大学病院の先生、助産所の先生が
何度も連絡を取り合ってくれたそうです。
病院に到着後、何度か深呼吸をし、
『さーてこれから何時間か痛みが続くんだろうな、、』
と思いきや、先生から
「あと2、3回(の深呼吸)で生まれますからね!」とのお言葉。
え?ほんとに?
と思ったら、本当にすぐに生まれてきてくれました!
ギリギリのタイミングで間に合い、病院で出産することができました。
1月11日、午前3時45分。
家で主人を起こしたのが1時過ぎだったので、たったの2時間半。
あと少し遅かったら、自宅か、救急車の中か、下手したら雪道か、、そんなところで生まれていたかもしれません。
お腹の子も、病院に着くまで頑張って耐えていてくれたのだと思います。
本当に安産で出産することができました。
産声を聞いた瞬間、
必死になってくれた主人、家族、
遠くに居ても見守り続けてくれた助産所の先生、
来られないはずの道を無理矢理来てくれた救急隊の方々、除雪車の方、
突然の知らせにも万全の状態で受け入れて下さり、無事に産ませてくれた病院の方々に
「産ませてくれて本当にありがとうございます。」
と、何度でも伝えたくなりました。
皆さんの顔が浮かんで、とても温かい気持ちになりました。
私はこの子を産んだだけです。
この子が大きくなったら、
「あなたはたくさんの人に助けられ、支えられ、守られて生まれてきたんだよ。
そしてあなた自身も必死に頑張って産まれてきてくれてありがとう」
と伝えたいと思います。
迷惑をかけて、生きていきたい
実は、現在5歳の長女が保育園に入園するまで、
私は娘をできるだけ誰にも預けたくなくて、頼りたくなくて、
娘を「囲う」ような育児をしていました。
周りに頼ることは、迷惑をかけることだと思っていました。
そして、「迷惑だ」と思われるのが怖いと思っていました。
でも 今回の出産を通して、
子供を産むのも育てるのも、自分1人では絶対に無理で
たくさんの人の力が必要だということを知りました。
だからこそこの子は、もっと周りの人を信頼して、頼って、甘えて、たくさんの人の愛を受けて、
そしてその分、私は周りの人に感謝して育てていきたいと思いました。
私の今回の出産から産後まで、上の娘を 主人がずっと世話してくれていました。
娘の保育園のお弁当の日には、私の代わりに義母と義父と娘本人が
3人で力を合わせて仲良くお弁当を作っていました。
5歳になったばかりの娘は、生まれたばかりの弟を毎日飽きもせず抱っこしてくれて、
「お姉ちゃんがいるから大丈夫だよ♡」と声をかけ、
弟の夜泣きに何度も起こされ
「いつもうるさくてごめんね」と私が謝ると
「ママいいんだよ、気にしなくて」と言ってくれます。
子供は、この世に生まれてくる時からずっと、
むしろその前からずっと、そしてきっとお空に帰るまでずっと
たくさんの人に守られ、助けられ、愛されて育っていくんですね。
母親はそれを信じ、愛し、頼り、そしてそれに感謝して生きていけばいいんですね。
これからは、周りの人を信じて、たくさん迷惑をかけて、肩の力を抜いて、
そしてそれ以上に感謝して
母親として生きていきたいと思いました。
その分、私も他の人から迷惑をかけてもらえたらいいなと思います。
そして、今回の出産を通して、家族のことを今までよりずっとずっと好きになりました。
私の家族はいつだって
私の敵ではなく味方だったのに、私がそのことに気づいていませんでした。
家族とのこれからの毎日が、もっともっと楽しくなりそうです!
この文章を読んでくださった皆様、最後までお付き合いくださり本当にありがとうございます。
娘、息子共々
今後ともよろしくお願いいたします。
Enhance 高野淳子